休みが欲しいという甘え。成果を出したいなら365日間毎日努力は必須だと気づいた話。
自分の人生があまり好転しないなぁと一人考えに耽っていた。
そこで、実際に成果を出している人がどのくらい頑張っているのかをネットで調べてみた。
僕が調べた人は、ブログで月300万円くらい収入を得ているらしい人なのだが、なんとブログを1000日以上毎日更新しているらしい。
ブログだけでなくYouTube、voicyも毎日更新しており、さらには海外で自分の会社も運営しているらしい。
聞いただけで俺は発狂した。
ブログを1000日毎日更新!?会社の経営と並行して!?
しかもyoutubeやvoicyなんかも毎日更新しているのか...
はっきり言って不可能じゃね?って俺は思った。しかもその人、本の執筆や、自分で教材なども作って販売しているらしい。
俺はもう失禁してしまいそうだった。
完全に俺とは次元が違う。
一日中ダラダラYouTubeを見て、好きな時に飯食って、たまに散歩に行って1日が終わる俺とは別世界の生き物だと直感した。
その人はYouTubeでこう言っていた。
「人間って1日の終わりに寝れば、翌日には元気になるじゃないですか。だから休日っていうものは、そもそも人間に必要ないんですよ。」と。
こいつは何を言っているんだ?
率直にそう思った。
365日休みの俺ですら、日々疲れてお昼寝とかしちゃうのに、休みがいらないだって?
だが、俺は同時に思った。
受験生などは365日休まずに勉強して志望校に合格していく。
つまり大学受験に成功しているような人のほとんどが365日連続の努力を行えるということだ。
難関校に受かるような人になればなるほど、行える努力量はさらに増えるだろう。
最近はブログを企業で運営している人たちも多い。
つまり、俺がブログで成功するためには、365日フルの努力を行えるような人間の大群をなぎ倒していかなければならないのだ。
それなのに、俺は気が向いた時にブログを書いて、たまにアクセス数を確認しながら「ブログ伸びたりしないかな」と一喜一憂していたのだ。
馬鹿じゃないのか。
俺が踏み込もうとしている世界は、そんな甘い世界ではない。
365日死ぬほどの情報をインプットし、熟考して記事を練り上げ、何度も何度もトライアンドエラーを繰り返した人間の極一部がブロガーとして成り上がっていくのだ。
俺は今までの自分を恥じた。
なんて甘い考えでこの場に立っていたんだと。
自分の人生が好転しない?当然だ。
今までの自分は何もやっていないに等しかったのだから。
俺は少しずつ今の自分を変えていく決意をした。
今までただ漠然と不安になっていた時間。
それを少しずつ自分を変える時間に使おうと。
習慣というのは恐ろしいもので、ちょっとの努力で変わるほど生優しいものではない。
だから、大量の時間を使って少しずつ、しかし、確実に自分を変えていこうと思った。
まずはyoutubeを見ている時間を減らして、ブログや情報のインプットに当てよう。
残念ながら、今の自分に有益な情報をアウトプットできるだけの知識はない。
たくさん本を読み、たくさんブログをかき、少しずつ自分の中に知識を蓄えていこう。
そう決意した俺。
これで人生が変わっていく。
そう思った。
しかし、1時間後にはYouTubeを見てゲラゲラ笑う俺の姿があった。
なぜか不安に駆られる日々。暇な時間が多いほど不安になる。運動するのが一番いいと思う。
この前youtubeを見ていたら、「若くて暇なやつって基本不安の塊になる」みたいなことを配信者の方が言っていて、こいつニートのことをよくわかっているなと思いました。
確かに暇だととてつもなく不安になるんだよね。
そしてその配信者さんがいうには、生きている限り不安から逃れるのは不可能だそうです。
これはまさにその通りだなと思いました。
自分は金持ちになっても、何かしらの不安を抱えているだろうし、生きている限りこの不安から逃れることはできないだろうなと薄々感づいていました。
でも、人間どうしても不安があるとそれを消そうと切磋琢磨してしまうんですよね。
絶対に消せないのにね。
配信者が言うには、将来に漠然とした不安がある場合は「まあ、なんとかなるだろう」で処理して下手に打ち消そうしてはダメらしいですね。
自分も概ねそう思います。
消そうとして消せないとますます不安に駆られていくんだよね、これ。
で、何やっても不安が消せないから絶望して自殺してしまうと。
でも、やっぱり不安って辛いし、できることなら消したいよな。
これは別の配信者さんが言ってたことだけど、不安に押し潰されそうなときはとにかく忙しくしてみるのがいいそう。
とにかく考える暇をなくすのが大事。
冒頭でも言ったけど、不安になるって基本暇なやつだから。
だから、とにかくやらなきゃいけないことを1日に詰め込みまくって何も考えないようにする。
あとは、朝散歩して日光を浴びて、よく食べ、よく遊び、よく寝て、よく動く。
亀仙流よ。
よく動いて、よく寝るのがポイントやな。
現代人で不安に駆られているやつって大抵運動不足なんだよな。
自分がそうだし。
運動するのが一番いいと思う。
運動って抗うつ薬に匹敵するほど、うつ病に効果あるって聞くし。
俺も走ってこようかな。
不安になっているくらいだったら、走ってきた方が絶対いい。
別に走るのなんてどこでもできるし。
でも、でかい公園で走りたくなってしまう。
ポジティブなやつってどこでもランニングコースにしちゃうからな。
俺もそいつらを見習って、もう家の前から走り出そうかな。
そして走って疲れてきたら家で勉強よ。
もうこれ完璧じゃね。
ダイエットもできて、うつ病対策もできて、ついでに勉強できる。
無敵よ。
めちゃくちゃ走りたくなってきた。
このブログが書き終わったら早速走ってこよう。
午前運動、午後勉強みたいな感じがいいかもな。
午前に運動すると代謝が上がるってよく聞くし。
ということで走ってこようと思います。
ブログはまた後で書こうと思います。
バイちゃ〜。
本を100冊以上読んだ結果。行動しないと結局何も変わらない。ただ読書は楽しいからやるっていうのもあり。
よく色んな人が本を読めという。
自分も本を読むこと自体には賛成だ。
本を読むことで自分の中の世界が大きく広がる。
それは間違いない。
100冊以上読んだ経験からもそう思う。
しかし、自分の中の世界が広がったからといって特別大きな変化が起きるかというと、少なくとも自分はほとんど変化が起きなかった。
本を読むだけでは人生は変わらないのだ。
いや、変わっているのかな?
自分が気づけていないだけかもしれない。
しかし、劇的な変化というのはそうそう起こらない。
むしろ人生に大きな変化を起こしたいなら、小さな行動を積み重ねることをお勧めする。
自分は少しずつブログを書いているが、そのおかげで月1500円くらいだがお金が入った時期があった。
今は300円くらいに下がってしまったが。
やっぱり毎日継続して何かに取り組むことって自分たちが思っている以上に重要なことだと思う。
このブログだって積み重ねれば、大きな宝の山になるかもしれない。
やっぱり行動を起こすことがかなり大事だ。
しかし、なら本は読む意味がないかというとそんなことはない。
本で得た知識というのは自分に新しい道だったり、先人の知恵を授けてくれたりする。
その知恵だったり、道というのが案外バカにならないのだ。
それに本を読むという膨大なインプットを行える人間というのは、同時に膨大なアウトプットを行える可能性を秘めていると自分は思う。
本を読むというのは、簡単そうに見えて結構な力を必要とする。
しかし、本を読むことを繰り返すうちにその力も次第に強化されていくのだ。
本を読むことを習慣してしまえば、勝手に知識が入ってくるようになる。
あとはその知識を使って調理をするだけで、様々なものをアウトプットできる。
電気について知識を読書で得たなら、次第に電子工作のアウトプットができるようになるかもしれない。
化学の知識を読書で得たなら、次第に薬などを作れるようなアウトプットができるようになるかもしれない。
色々な知識があれば、その分できるアウトプットの幅も広がる。
問題は”アウトプット”なのだ。
知識をいくら得てもアウトプットしなければその知識が生かされることはない。
まあ、自分の頭の中の妄想を膨らませることには役立つかもしれないが。
大きく人生に変化を与えたいなら、インプットとアウトプットはセットで行わなければいけない。
そして、その比率はインプット3、アウトプット7の比率で行うのがベストらしい。
人間の得た知識というのは実際に使わないと記憶に定着しないのだ。
アウトプットとは、何も何かの製品を作るとかそういう高度なことだけではない。
ただ得た知識を紙に書き出してみる。
ブログで発信する。
youtubeで発信する。
音声メディアで発信する。
これらだって立派なアウトプットだ。
まあ、ただ話したり書いたりするよりその知識を使って何かを作ったりした方が記憶には残るだろうが。
自分も実のところ読んだ本の大半が自己啓発本で役に立つ知識というのがあまり載っていなかった。
これから読書をする人には、なるべく自己啓発本以外の読書をお勧めする。
しかし、読書はなにも利益を生むために行うものとは限らない。
自分が楽しいと思うから読書をする。正直その方が気持ちも楽だし結果的に多くのメリットがあるだろう。
本を読むと色々な知識が入ってくるので、次第に色々な種類の本に手を出すようになるしな。
自分も最近は化学だったり日本史だったり数学だったり色々な本を読んで勉強するようになった。
本というか参考書なのだが。
とにかく色々な知識がある方が読書もより楽しくなる。
理解できる範囲が増えるからだ。
読書は楽しいゾ〜。
みんなも色々な本を読んでみてみるといい。
気分転換にもなるしな。
学歴コンプレックスという呪い。聖域に入るには。
今日は友達と友達の弟とスシローに行ってダラダラ食っちゃべってた。
こういうことをするのも、まあ悪くない。
というか、こういう時間を永遠に過ごせたら楽しいだろうなと思う。
自分が金持ちになったとして、結局やることって友達と遊んだり家族と時間を過ごすことなのだから、自分の人生の到達点って今なんじゃないかと思う。
ここからは、友達も結婚したりして疎遠になっていって、家族も歳をとっていずれは死んでしまい自分は一人ぼっちになる。
そう考えると、自分の人生で一番楽しいのは今なのではないかと思うことが多い。
自分の人生ってこれ以上歳をとって何か楽しいことってあるのだろうか?
友達とも疎遠になり、家族も死んでいって一人ぼっちになる自分は楽しい人生を歩めているのだろうか?
あんまり未来については考えないようにしよう。
結局、自分の経験上、不安っていうのはどこまでいっても生まれてくるものだ。
お金がいっぱいあっても、それを失うを不安が出てくるだろうし。
自分が今やるべきことというのは、今に集中することだろう。
今を最大限生きることが結局自分にとって一番の投資になるのだ。
何をやるべきかな。
まずは、自分のコンプレックスである学歴をどうにかしようと思う。
学歴コンプレックスって本当にしょうもないし、そんなことに固執するなんて人生無駄にしているなと正直自分でも思う。
でも、どうしようもないのだ。
これはいわば呪いのようなもので、自分の中のプライドという化物が今の自分を許してくれないのだ。
この呪いにかかったものは十中八九幸せになることができない。
自分の望んだ学歴を手に入れるか、もしくは死ぬか。
そうしなければこの呪いは解けることはないのだ。
学歴コンプレックスという呪いは、プライドだけ異常に高い無能な人によく見られる呪いだ。
そもそも能力が本当に高い人というのは、学歴なんて気にする間も無く成功をおさめたり、かなり早い段階から何か実績を積んでいるので学歴なんてほとんどあてにならないことを理解してしまうのだ。
無能な人というは、自分の中に誇れるものが何もなく、人の目から見て自分がどう映るかということばかり気にしているので、学歴だとか自分が所属する会社の名前だとか、わかりやすく自分を飾れるものに固執する。
そういう奴ら基本いつまで経っても自分を肯定できるようになることはない。
自分を評価する基準を他人の目というすごい漠然とした妄想に近いものに委ねているからだ。
少し考えれば、他人の評価なんて日本人だけでも1億人以上いるのだから千差万別で全くあてにならないということに気づくものなのだが。
学歴気にしてるやつって、小さい頃から盲目で先生の言うことは絶対正しいとか、多数派の意見が絶対正しいみたいなバカが多い気がする。
世の中に絶対正しいことなんてないという事実に気付けない頭のおかしい奴らなのかもしれない。
多分そういう奴らは現代の法律がハンムラビ法典に書かれているようなことでも、それが絶対なんだとか言いそう。
自分もそうだが、学歴コンプレックスになるやつというは、須く勉強していない。
そもそも大学受験にちゃんと向き合ったことのある人なら、自分の限界はこんなものだと理解するはずなのだ。
そうじゃない学歴コンプレックス持ちというのが、必ず言う言葉が「本気出せばいけるかも」という言葉だ。
側から見ればそいつの言う本気は幻想で、今までずっと本気で生きてきた結果が今のお前なんだよという感じなのだが。
もっと言ってしまえば、そいつは元々努力できない人間なのだ。
そいつは人が当たり前に行っている能力が欠如した人間。
いわば欠陥品なのだ。
鉄屑が飛行機をみて、自分も本気出せば空飛べるけどね、みたいなこと言っているようなものだ。
学歴コンプ持ちというのは自分のことを客観的に見れない哀れな生き物なのである。
自分がまさにそうだ。
20年以上生きてきて、まだ「本気の自分はこんなものじゃない」みたいな厨二病に苛まれている。
自分でも思うがただただ哀れ。
学歴コンプレックスという呪いを解く方法とかないかなぁ。
まあ、あるとすれば別の分野で自分が得意だと思えるものを見つけることかもしれない。
自分の周りで学歴コンプレックスがない人間というは、スポーツだったり自分にとっての聖域を持っている。
例えば、モンハンというゲームが聖域な人というのは、モンハンをやるときにいちいち「このゲームって面白いよね?」「モンハンやっている自分は正しい」みたいなことを他人に確認しない。
ただ好きだから、自分が面白いと思うからやる。ただそれだけ。
自分にはそういう聖域がない。
そして聖域は探して見つかるものではないと思う。個人的にだが。
人生で色々なことを経験するうちに偶然自分のポケットに入っていたみたいなものだと思う。
俺も聖域が欲しい。
でも、聖域を欲している人には決して見つからない。
絶対に雑念が入るからだ。
「これは自分に向いていることだろうか」「これをしている自分は他人の目にどう映るだろう」
そういうことを考えているうちは絶対に聖域は手に入らない。
聖域を見つけるにはとても純粋な心。
いわば、子供の心になる必要があるのだ。
なんか心地いいからこれをやる。
忙しいけど、ついやっちゃう。
やるべきことをサボって、やってしまう。
気がつくとそれについて考えてしまっている。
そういうものが聖域への鍵なのだ。
昔の自分にはそういうものが色々あった気がする。
今は何をするにも他人がどう思うが気になって雑念が入る。
俺が聖域に入るには、極限まで今に没頭する必要がある。
1秒先のことも1秒前のことも考えない。
今この瞬間、自分の本能のままに行動する。
それができれば聖域に入れる。
だけどできないのだ。
どうしても、時間の無駄じゃないかとか自分にとって利益があるかとか、そういうことばかり考えてしまう。
多分赤ちゃんと同じ心になれば常に聖域に入った状態になると思う。
要するに俺は赤ちゃんになりたいのだ。
何も考えず、本能のまま行動し続ける。
気の向くままに物に触り、気の向くままギャン泣きする。
他人の目なんて気にしない。
でも、できない。
だって俺もう23歳だもん。
本能のまま行動したら捕まっちゃうよ。
やっぱり、常に聖域に入った状態というのは良くないのかもしれない。
自分の好きな時に聖域に入り、好きな時に聖域から出るみたいなことができれば俺は多分最強の人になれると思う。
最強の人になれれば、もう不安とかない。
だっていつでも今この瞬間に100%意識を向けることができるなら、人生に無駄とかなくなるもん。
まあ、最強の人とまではいかなくても、聖域に入れるくらいにはなりたいな。
このブログの最終目的地は聖域に入ることにしよう。
やっぱりブログっていいよね
ブログって落ち着く。
なんでも書いていいし。
ブログで好きなことを書いて生活できたら、毎日楽しくなるだろうな。
最近は大学受験の勉強をしています。
20代中盤のおっさんがなぜそんなことをやっているかというと、もちろん行きたい大学があるからです。
というか自分の夢の一つに大学で学びまくってみたいのがあるんだよね。
一日中、大学の図書館とか研究室にこもって何かに没頭していたいみたいな。
でもそれって普通に家でもできることか。
まあいいや。
ちなみにというか、もしかすると今年の4月から大学生になるかもしれないです。
なんで大学生に戻るかというとまあ理由は色々だな。
一人暮らしの練習がしたいってのもあるし、大卒の資格が欲しいってのもあるし、学生という肩書きが欲しいっていうのもあるし、さっき言ったみたいに一日中勉強していたいってのもあるし、もしかすると就職しなきゃいけなくなるかもしれないから新卒の肩書きが欲しいっていうのもある。
できれば、自分は就活なんかしないで自分一人の力で稼いで生きていくってことがやってみたいんだけどね。
ただ大学生に戻れば、色々な道を模索する精神的な時間や空間も手に入るからその間に色々挑戦してみようと思う。
なんだろう。
書きたいことと違うな。
さっきyoutubeを見ていたらすごい神聖な気持ちになって、生きるって素晴らしいみたいなスーパーハイの状態になっていたんだけど。
良くも悪くもブログ書いていたら落ち着いてきちゃった。
最近、思うんだけどお金を月10万くらい手に入れるすべが手に入ればもう一生それでいいんじゃないかと思う。
てか、今の生活が一生続けばそれが一番いいんだけど、それができないから今から色々手を打っているわけで。
お金を稼ぐってすごい難しいよね。
今の自分にはお金を稼ぐってすごい大変なことのように感じる。
だから、それができる人たちはすごいなと思う。
やべえ。
落ち着いたら眠くなってきた。
今日起きたの朝の3時とかいう意味わからない時間だからな。
寝ようかな。
ダラダラ生きていければそれが一番なんだよなぁ。
就労支援に行くことになりました。就労支援楽しいぞ。
ここ数ヶ月ブログをちゃんと更新せず、何をしていたのかというと、就労支援に行ってました。
就労支援とは、障害者の就職を助けてくれるところなのだが、これがとても楽しい。
具体的には、グループワークなどで色々な人たちと話せるのが、毎日楽しみなのだ。
話した内容は、外に持ち出してはいけないのでブログにはかけないのだが、なんか友達が増えたみたいで、とても嬉しい気持ちになる。
今家で孤独な障害者は、就労支援、おすすめなのでぜひ通ってみて欲しい。
そして、僕のニートな日常はどうなっているかというと、相変わらず就労支援に行っている時以外は家でダラダラしている。
ただ、最近また大学に行きたいという夢を持つようになったので、1日ほんの少しではあるが受験勉強のようなものをしている。
これについては「パオブログ」の方でも少し語っている。
ただ勉強するスピードが遅いのと、就職して職歴をつけてから大学に行こうと思っているので、行くのはかなり先になりそうだ。
ただ、自分の勉強のペースがアップし、目標としている大学のレベル(具体的には夜間の東洋大学に受かるレベル)に達するのが早まった場合、就職する前に大学に入学するかもしれない。
ただ相変わらず一日中ダラダラしている。
今もブログを書いている最中に昼寝をしてきたばかりだ。
なので何を書いているかほとんど忘れてしまった。
今日はスパゲッティを食ってチョコパイを食ってそのまま寝っ転がっていたら、寝てしまった。
なんて怠惰なんだろう。
今日も何もせず1日が終わるのかな。
この後友達と散歩行ったり、ウイイレというゲームをやる予定なのだが。
ちなみに友達もニートだ。
こうやっていつまでもダラダラ過ごせたらいいのにな。
まあ、また書きたいことがあったら適当に書いていくぞ。
ニートにも希望はあるのか?三年間ニートしてる俺が人生をかけて突破口を探す旅に出る
ニートをしているとネットで将来についてだったり、同じニートがどうしているか検索することが多々あるよね。
自分も毎日ネットで似たような人の記事だったりを読み漁る日々だ。
ただニート関係のことを検索したところで、出てくるのは「人生終わり」みたいなすごいネガティブなものばかりだ。
自分は高校も大学もドロップアウトした人間で、周りにも似たような人間が何人か集まっているので、ニートのような人に関しては普通の人よりは詳しいと思う。
その経験から言うと、ニートになってすぐに働くための行動を起こした人は何とかなっている人がほとんどだ。
しかし、自分のように三年以上ニートしている人はそのまま、ずるずると地に落ちていく人が多い。
これは、三年のニート期間が就職を妨げているというよりかは、三年以上ニートをしてしまう精神構造が社会復帰を妨げていると言える。
普通何か大きな成果をあげる場合は目の前の小さなことを少しずつ積み上げていき、結果的に大きな成果につながる場合が多い。
しかし、精神構造に異常がある人間は、大きな夢を掲げるが、その大きな夢を目の前の小さなことに取り組まない言い訳として使ってしまい、自分のできることには目を向けず(精神構造に問題がある人は誰にでもできることを馬鹿にする傾向が強い)、普通の人が何年もかけて取り組めるようなことにばかり関心を示し、結果物事を先送りし、何にも取り組まないという状態に陥る場合が多い。
1日の1%を変えるのを一年間毎日行えば元の37倍変化を起こせるというのはワードプレスのブログかはてなブログのどちらかに書いた気がする。
ニートを3年している自分ができるアドバイスがあるとすれば、小さなことでも無駄と思わず毎日取り組んでみることだ。
1日10分でいい。
何か自分の将来のためになることや能力を高めることに時間を使ってみるといいだろう。
何もせず不安になり、スマホをいじっている時間が一番無駄なのだ。
小さなことをコツコツやる。
当たり前すぎて、全然参考にならねえよという人がいるかもしれないが、あなたはその”当たり前”ができているだろうか?
偉そうに語っているお前は何かしているのかよと言われれば、自分も毎日何かにコツコツ取り組んでいるわけではない。
しかし、三日に一度くらいのペースでブログを書いたりYouTubeに動画をあげたり、自分にできることを少しずつやったおかげで、ブログで砂粒ほどだがお金が入るようになった。
このブログでではなく、ワードプレスの方のブログでだが。
本当に微々たる金額でまだニートを脱出したわけではないが、それでもこれから毎日とはいかなくても、少しずつ何かに取り組んでニートにも希望があることを教えられる人間になれたらいいと思っている。