学歴コンプレックスという呪い。聖域に入るには。
今日は友達と友達の弟とスシローに行ってダラダラ食っちゃべってた。
こういうことをするのも、まあ悪くない。
というか、こういう時間を永遠に過ごせたら楽しいだろうなと思う。
自分が金持ちになったとして、結局やることって友達と遊んだり家族と時間を過ごすことなのだから、自分の人生の到達点って今なんじゃないかと思う。
ここからは、友達も結婚したりして疎遠になっていって、家族も歳をとっていずれは死んでしまい自分は一人ぼっちになる。
そう考えると、自分の人生で一番楽しいのは今なのではないかと思うことが多い。
自分の人生ってこれ以上歳をとって何か楽しいことってあるのだろうか?
友達とも疎遠になり、家族も死んでいって一人ぼっちになる自分は楽しい人生を歩めているのだろうか?
あんまり未来については考えないようにしよう。
結局、自分の経験上、不安っていうのはどこまでいっても生まれてくるものだ。
お金がいっぱいあっても、それを失うを不安が出てくるだろうし。
自分が今やるべきことというのは、今に集中することだろう。
今を最大限生きることが結局自分にとって一番の投資になるのだ。
何をやるべきかな。
まずは、自分のコンプレックスである学歴をどうにかしようと思う。
学歴コンプレックスって本当にしょうもないし、そんなことに固執するなんて人生無駄にしているなと正直自分でも思う。
でも、どうしようもないのだ。
これはいわば呪いのようなもので、自分の中のプライドという化物が今の自分を許してくれないのだ。
この呪いにかかったものは十中八九幸せになることができない。
自分の望んだ学歴を手に入れるか、もしくは死ぬか。
そうしなければこの呪いは解けることはないのだ。
学歴コンプレックスという呪いは、プライドだけ異常に高い無能な人によく見られる呪いだ。
そもそも能力が本当に高い人というのは、学歴なんて気にする間も無く成功をおさめたり、かなり早い段階から何か実績を積んでいるので学歴なんてほとんどあてにならないことを理解してしまうのだ。
無能な人というは、自分の中に誇れるものが何もなく、人の目から見て自分がどう映るかということばかり気にしているので、学歴だとか自分が所属する会社の名前だとか、わかりやすく自分を飾れるものに固執する。
そういう奴ら基本いつまで経っても自分を肯定できるようになることはない。
自分を評価する基準を他人の目というすごい漠然とした妄想に近いものに委ねているからだ。
少し考えれば、他人の評価なんて日本人だけでも1億人以上いるのだから千差万別で全くあてにならないということに気づくものなのだが。
学歴気にしてるやつって、小さい頃から盲目で先生の言うことは絶対正しいとか、多数派の意見が絶対正しいみたいなバカが多い気がする。
世の中に絶対正しいことなんてないという事実に気付けない頭のおかしい奴らなのかもしれない。
多分そういう奴らは現代の法律がハンムラビ法典に書かれているようなことでも、それが絶対なんだとか言いそう。
自分もそうだが、学歴コンプレックスになるやつというは、須く勉強していない。
そもそも大学受験にちゃんと向き合ったことのある人なら、自分の限界はこんなものだと理解するはずなのだ。
そうじゃない学歴コンプレックス持ちというのが、必ず言う言葉が「本気出せばいけるかも」という言葉だ。
側から見ればそいつの言う本気は幻想で、今までずっと本気で生きてきた結果が今のお前なんだよという感じなのだが。
もっと言ってしまえば、そいつは元々努力できない人間なのだ。
そいつは人が当たり前に行っている能力が欠如した人間。
いわば欠陥品なのだ。
鉄屑が飛行機をみて、自分も本気出せば空飛べるけどね、みたいなこと言っているようなものだ。
学歴コンプ持ちというのは自分のことを客観的に見れない哀れな生き物なのである。
自分がまさにそうだ。
20年以上生きてきて、まだ「本気の自分はこんなものじゃない」みたいな厨二病に苛まれている。
自分でも思うがただただ哀れ。
学歴コンプレックスという呪いを解く方法とかないかなぁ。
まあ、あるとすれば別の分野で自分が得意だと思えるものを見つけることかもしれない。
自分の周りで学歴コンプレックスがない人間というは、スポーツだったり自分にとっての聖域を持っている。
例えば、モンハンというゲームが聖域な人というのは、モンハンをやるときにいちいち「このゲームって面白いよね?」「モンハンやっている自分は正しい」みたいなことを他人に確認しない。
ただ好きだから、自分が面白いと思うからやる。ただそれだけ。
自分にはそういう聖域がない。
そして聖域は探して見つかるものではないと思う。個人的にだが。
人生で色々なことを経験するうちに偶然自分のポケットに入っていたみたいなものだと思う。
俺も聖域が欲しい。
でも、聖域を欲している人には決して見つからない。
絶対に雑念が入るからだ。
「これは自分に向いていることだろうか」「これをしている自分は他人の目にどう映るだろう」
そういうことを考えているうちは絶対に聖域は手に入らない。
聖域を見つけるにはとても純粋な心。
いわば、子供の心になる必要があるのだ。
なんか心地いいからこれをやる。
忙しいけど、ついやっちゃう。
やるべきことをサボって、やってしまう。
気がつくとそれについて考えてしまっている。
そういうものが聖域への鍵なのだ。
昔の自分にはそういうものが色々あった気がする。
今は何をするにも他人がどう思うが気になって雑念が入る。
俺が聖域に入るには、極限まで今に没頭する必要がある。
1秒先のことも1秒前のことも考えない。
今この瞬間、自分の本能のままに行動する。
それができれば聖域に入れる。
だけどできないのだ。
どうしても、時間の無駄じゃないかとか自分にとって利益があるかとか、そういうことばかり考えてしまう。
多分赤ちゃんと同じ心になれば常に聖域に入った状態になると思う。
要するに俺は赤ちゃんになりたいのだ。
何も考えず、本能のまま行動し続ける。
気の向くままに物に触り、気の向くままギャン泣きする。
他人の目なんて気にしない。
でも、できない。
だって俺もう23歳だもん。
本能のまま行動したら捕まっちゃうよ。
やっぱり、常に聖域に入った状態というのは良くないのかもしれない。
自分の好きな時に聖域に入り、好きな時に聖域から出るみたいなことができれば俺は多分最強の人になれると思う。
最強の人になれれば、もう不安とかない。
だっていつでも今この瞬間に100%意識を向けることができるなら、人生に無駄とかなくなるもん。
まあ、最強の人とまではいかなくても、聖域に入れるくらいにはなりたいな。
このブログの最終目的地は聖域に入ることにしよう。